忘れてしまった日本語

2011.05.16

梅子は、ワシントン市内のスティーブソソソーセミナリーという小学校で学んだのも、一八七八年、アーチャー・インスティテュートに進学した。そして、八二(明治一五)年、一〇年以上にわたる留学生活を終えて帰国する。臨界期をアメリカで過ごした梅子は、当然ながら日本語がまったく話せなくなっていた。梅子の留学期間が一〇年前にずれていたら、帰国時はまさに極端な英語偏重の明治初頭、たとえ日本語が話せなくなっていたにせよ、梅子はたちまちもてはやされたであろう。だが、彼女が帰国したとき、史上最年少の女子留学生を華々しく送り出した英語万能の時代はすでに過ぎ去っていた。日本語の話せない梅子は、もてはやされぬどころか、職を得ることすらできなかった。もちろん、責任を問うべきは、父親・仙であって梅子本人ではない。だが何より、時代が激しすぎたのだ。梅子を救ったのは、誰あろう伊藤博文であった。梅子は伊藤に見出されて、その妻子の通訳・家庭教師を務め、彼の勧めによって華族女学校の教師となった。一八八九(明治二二)年、彼女はふたたび渡米し、ブリソマー大学およびオスウィーゴー師範学校で学んだのも、九二年に帰国した。そして、一九〇〇(明治三三)年、長年勤めた華族女学校と、兼任していた女子高等師範学校の職を辞し、女子英学塾を設立した。のちの津田塾大学であり、梅子が残した最大の業績である。女子英学塾での英語教授に際して、梅子は、できるだけクラス規模を小さくし、細やかな指導を旨とした。その教え方は厳格を極め、発音やっづりの間違いを一語たりとも許さなかった。週一回の作文の授業時には、生徒が書き上げた作文を一蹴することもあったという。ここに、並の母語話者とは違う、英語教師としての梅子の優れた資質を見ることができる。
(関連)
オンライン英会話スクール選びのアレコレ

オンライン英会話スクールの楽しさ

クチコミでも大人気のオンライン英会話教室